2007年3月13日火曜日

西荻図書館で借りた「江戸の町役人」を読む-06

 「「江戸宿」というよびかたは、すでに北条氏の時代からもちいられていた。天正十年(1582)の江戸城代遠山宗見(直景)の伝馬手形に「江戸」があり、同十二年の北条氏政の徴税書にも「江戸宿小代官・百姓中」(武州文書)とある。とすれば、入国後の家康も、江戸の町人居住地を「江戸宿」と総称したのではないだろうか。ともあれ、天正二十年十月には、すでに「三人の年寄」が存在していたこと、それ以前にも連雀町が三人の年寄たちに支配されていたことが確認できよう。」とある。
 江戸宿、連雀町、三人の年寄などを知った。北条氏の時代の江戸城周辺には江戸の町はなく、江戸宿があったということであろう。
 「年寄ということばは、老分の者という意味であり、いわゆる「庄屋仕立て」という徳川氏の支配機構の中では、後に老中とか若年寄という職名が生まれるように、支配の責任者を意味することばであった。」
 年寄、老分、庄屋仕立て、老中、若年寄。支配の責任者などを知った。年寄は北条氏の時代からあり、徳川氏の時代に引き継がれていったということであろう。
 「「女喜遊笑覧」によれば、「れんじゃく」とは物を背負う道具のことで、のちには行商人のことをよぶようになったという。この商人たちは領内の商品流通のにない手であるとともに、多様な情報を集めることができたため、領主は鑑札を与えて運上を徴収し、これを統制した。」とある。
 れんじゃく、行商人、鑑札、運上、徴収などを知った。北条氏の時代から連雀町があり、れんじゃくを使っている行商人がいて、行商人の町を支配する年寄がいて、行商人に鑑札を与えて運上を徴収する領主がいたということであろう。

0 件のコメント: